〔代表経歴2〕青年期を過ごしたフィリピン・ネグロス島 - 【がんばれ七ヶ浜 震災復興支援プロジェクト】国際協力研究会 > 団体概要 > 代表経歴

宮城県宮城郡七ヶ浜町を応援するサイト。東日本大震災からの復興支援活動を行っています。

記事一覧

ホーム > 団体概要 > 代表経歴 > 〔代表経歴2〕青年期を過ごしたフィリピン・ネグロス島

〔代表経歴2〕青年期を過ごしたフィリピン・ネグロス島

代表・古川勝利が中学生~青年期を過ごし、国際協力の原点となったフィリピン・ネグロス島での生活。

そのきっかけとなった、父・古川外男の国際交流歴を紹介します。また、NGOオイスカの機関紙(2004年)に掲載された特集記事を転載します。


◆代表の父:古川外男の国際協力歴

1965年:フィリピンより研修生を自宅に住まわせる。

1968年:マレーシアより研修生を自宅に住まわせる。

1970年:フィリピン、マレーシアへ研修生を訪ねて視察訪問する。

1971年:家族を連れてフィリピンへ渡航。手弁当の国際協力が始まる。

1973年:170ヘクタールの原野にてモデル農場開発に着手する。開発活動資金はなく、ユダヤ系アメリカ人による無利子資金提供の支援を受ける。

1974年:マルコス大統領のコメ増産キャンペーンで「フィリピン一の収穫量」を達成し、表彰され、カンラオン市名誉市民となる。

1980年:フィリピンで初めて「コシヒカリ」の栽培に成功し、15ヘクタールの作付をして丸紅のレイテ銅精錬プロジェクトに供給する。

1981年:農場を水田50ヘクタール、畑10ヘクタール開発し、後進に農場を託して次プロジェクトに取り組む。

1982年:インドネシアの財閥アストラグループの「移民プロジェクト(ジャワ島に集中する人口をスマトラ、カリマンタンへと分散する国家事業)」の農業研修責任者として招聘される。しかし、政治的要因により、半年間でプロジェクト断念。

1983年:インドへ10年ぶりのオイスカ開発団として夫人と赴任。青年研修、日本米生産等に取り組む。

1990年:フィジーへ初のオイスカ研修プロジェクト創設の為に、夫婦で渡航。国立青年研修キャンプにて青年育成に取り組み、農業と家政科を指導。

1991年:1月ガン発病の為入院帰国し、11月13日に他界。享年60歳。「20歳で志を立て、20年後に達成。人生は長い」の言葉を残し、20年の国際協力人生を後進に譲って逝く。


◆【特集】稲作の国際協力に賭けた古川外男一家の軌跡

フィリピン・ネグロス島カンラオン。政府のモデル圃場に選ばれ、稲作を実践する人材を数多く輩出するプロジェクトの礎を築いた古川外男とその一家の物語は、後世に語り継がれるに違いない。


●福岡から志が立つ

九州で最大の人口を抱える福岡県も、都市部を一歩離れれば豊かな田園風景が広がっている。1971年、その福岡からある一家がフィリピンへと渡った。当時の日本は高度成長の只中で、庶民は車やクーラーなど物質的な豊かさを追い求める中、よりによってアジアの発展途上国に赴く姿は、周囲から相当奇異に映ったに違いない。

古川外男。当時40歳。運送会社の息子として福岡県八女市に生まれ、家業の手伝いなどを経て、25歳の時にミヤ子夫人と結婚した。夫人は福岡県嘉穂郡にある農家に生まれ、2人は結婚後5年ほど、夫人の実家で農業に勤しんだ。その後、炭鉱の仕事などを経て、福岡市内にあるタクシー会社に入社した外男氏は、運転手から営業部長まで昇りつめて労務管理も手がけた。その仕事に区切りがつくと、すでに3人の子、長女・代里子、長男・勝利、次男・邦男を授かっていた夫妻は、八女市で呉服の訪問販売を手がける「有限会社古川産業」を興すことになる。

古川一家をアジアへと駆り立てる運命の糸車がカラカラと回り始めるのは、この頃からである。オイスカ創立者・中野與之助の言う「日本人が国際社会で果たすべき使命」を意気に感じていた外男氏は、オイスカの研修生をホームステイで受け入れた。その研修生が、フィリピン・ネグロス島カンラオン市長の息子、ベルニー・バウチスタ君だった。

その後マレーシアの研修生も受け入れた外男氏は、1969、70年と立て続けにフィリピンやマレーシアに研修生訪問調査に出かけている。この時すでに心の中ではアジアで農業開発協力をやると決めていた節があり、カンラオンに行った時に、現地オイスカ支局まで作ってきている。翌年、マレーシアではなくフィリピン・カンラオンを赴任地に選んだのだが、その理由は「親父は辛い食べものが苦手だったから(笑)」(長男・勝利氏)というのが後日談である。


●勇躍フィリピンへ

1971年7月、古川一家はフィリピンに渡った。その時、3人の子はそれぞれ中3、中1、小5。

【がんばれ七ヶ浜 震災復興支援プロジェクト】国際協力研究会 8-1.jpg


「ちょうど学校が夏休み時期で、私らは"フィリピンに遊びに行く"と聞かされていたんです。向こうに着いて1ヶ月ほど経ったら、親父が"日本には帰らんぞ"とね。姉は帰りたいと泣いてましたね。私は中学の剣道部の先輩に何も言わずに来てしまったので、下手に帰ったらシゴキに遭うからフィリピンに居ればいいや、なんて思いましたね」と長男の勝利氏は振り返る。

カンラオンに辿り着いた一家は、頼りにしていた市長宅の一角での生活が始まった。しかし、あてがわれたのは馬小屋のような家屋と、3反ほどの小さな水田と元マーケットだった畑で、水を全く吸わない畑の土には手を焼き、ゴロゴロ転がる千個以上の大きな石を取り除く毎日だった。80kgあった外男氏の体重は、1ヶ月で20kg減った。外男氏と同じ八女市出身の若者が一緒にカンラオンに入っていたが、理想と現実のギャップに夢を失い、実家の事情もあって1年ほどで帰国してしまった。

条件の悪い土地でもがいていた古川一家に朗報が届いたのは、それからしばらく後のことである。市長の紹介で外男氏の前に現れたマパ氏(後のオイスカ・フィリピン総局会長)に、「カンラオンにある自分の農場を提供するので、周囲の手本となるモデルファームを築いて欲しい」と言われた。地元で砂糖キビ大農場やガソリンスタンドなどを経営するアメリカ人、シオン氏からも無利子融資での資金援助を得ることになった。

カンラオンは火山の麓にあり、山の頂きから湧き出る水は年中涸れることなく、もともと稲作をやるには絶好の可能性を秘めていた。しかも当時のフィリピンは、時のマルコス大統領が食糧増産計画を打ち出していた。IRRI(国際稲研究所)が開発する高収量品種を導入して、1カバン(=約1俵)の種モミから100カバンのコメを収穫する。その差の99カバンを称して、その増産計画は「マサガナ99」と呼ばれていた。

ミヤ子夫人はもともと農家の出身。外男氏もコメ作りは腕に覚えがある。一家で農場内の1.2ヘクタールの田んぼに全精力を注ぎ込んだ。IR-24という品種を用いて、正条植え、施肥や草刈りをこまめにやった結果、ha当たり230カバンも収穫して、当時の新記録ともてはやされた。

【がんばれ七ヶ浜 震災復興支援プロジェクト】国際協力研究会 8-2.jpg


「神様に感謝すること」。大収穫の秘密を聞かれた外男氏は、そう答えたという。その陰には、農家出身で"肝っ玉かあさん"張りに地元の人たちの人望を集めたミヤ子夫人や、平日は学校に通い週末は田んぼを手伝った3人の子どもたちとの「家族の絆」があったことは間違いない。


●プロジェクトの礎が築かれる

モデルファームを軌道に乗せるために、ワーカー(農業労務者)を雇い入れて、なだらかな傾斜の続く農場を棚田に造成する作業が急ピッチで進められた。

「当時はレべリング(水平度を測る)の機器が無かったので、水を入れたチューブを持って歩き、同じ高さ沿いにヒマワリに似た背の高い草を刺していくんです。等高線が出来たら、それに沿ってトラクターで土を掘り返します。次に、先端をヤスリで磨いて鋭くしたスコップを手に、みんなで畦を作るんです。畦の高さは60cm。それ以上高いと、草刈りの時に日本式の鎌が届かないんですよ」

勝利氏の説明を聞いていると、当時の様子が甦ってくる。

「ワーカーは多い時には、棚田の造成部隊で100人、田植えなど作付け部隊で100人、稲刈りは地元の村人が請負いでやるので、常時数百人の人が出入りしていました」

「カンラオン・モデルファーム」と名づけられたこのプロジェクトは、やがて人材育成を行なう研修センターの役割も持つようになる。数多くいるワーカーの中から、作業態度が優れている者を選抜して、「アシスタント」という肩書きを作った。アシスタントには、1人あたり2haの田んぼを割り当て、多いときには20人、計50haを彼らに任せた。「自分の担当の田んぼは、自分の責任」という自覚のもと、彼らは週末になると外男氏らとココヤシ酒を飲みながら、その週の作業の報告をし、次週の予定を決める。収穫良好の者には特別ボーナスを出したという。こうして、自分ひとりで稲作のすべてを管理運営できる人材が育っていった。このシステムが上手く機能して、コメの収穫量は年々増え続け、77年にはマルコス大統領に宮殿に招かれて、食糧増産の表彰を受けるまでになった。その2年後には、カンラオン研修センターが正式に設立されることになる。

【がんばれ七ヶ浜 震災復興支援プロジェクト】国際協力研究会 8-3.jpg


古川一家がカンラオンの地に立ってから10年を経た頃には、棚田は約60haにまで広がっていた。その間、勝利・邦男の2人は、当時南ミンダナオ大学で農業指導していた池田広志開発技術員のもとで「修業」したのち、姉の代里子とともに、フィリピンの有名校・セレマン大学に進学した。


●「郷に入らば、郷に従わせよ」

「日本に居た頃は、両親の夫婦喧嘩はよく見ましたが、フィリピンに来てからしなくなりました。オイスカ指導者ともなると夫婦喧嘩も出来ないという事です(笑)。親父は酒を飲んでは吉田松陰の今様を歌い、泣き上戸になってたんですが、家の外では絶対に涙を見せませんでしたね」(長男・勝利氏)。

そんな外男氏のモットーは、「郷に入らば、郷に従わせよ」。一歩間違えば批判を受けかねない言い回しであるが、この台詞を口にする外男氏の胸中には、「自分は農業指導でフィリピンに来ている。自分が教えるのは日本式のやり方。地元の人に"従わせる"くらいの気構えでないと申し訳ない」との思いがあったという。もちろん「従わせる」のは農業の部分のみで、生活習慣は別であり、研修生やワーカーを大人数抱える立場になってからは、外男氏みずからダンスパーティーを開くなどの気配りを忘れなかった。カンラオン周辺の大農園オーナー宅には頻繁に強盗が入ったのに比べて、簡便な造りの古川家は、10年以上の滞在期間中、ついに一度もそのような危ない目には遭うことは無かったという。

また、自分の子には「学生外交官とをしての自覚を忘れず、何時も日本の旗を背負って行動する事」と厳しい指導をしていた。これも、「日本から指導に来ている者の現地へ対する礼儀である」と言う外男氏の姿勢だった。

【がんばれ七ヶ浜 震災復興支援プロジェクト】国際協力研究会 8-4.jpg


1984年、研修センターの所長を地元出身のカドハダ氏に引き継ぎ、古川一家はカンラオンを後にした。古川夫妻はその後、インドネシア、インドに赴任し、最後は1991年からフィジーの研修センターで現地青年達に農業や家政科の指導にあたった。

その研修修了式の場で、外男氏が初めて涙を見せた。横にいたミヤ子夫人は、「なんで今回に限って泣いているんだろう」と不思議に思ったという。その頃、実は外男氏の体は病魔に侵されており、「これが最後の修了式だ」と悟っての涙だったのかもしれない。

92年11月に悪性リンパ腫が原因でこの世を60歳で去った外男氏の後を追うように、翌年の同じ月に同じ病気で、ミヤ子夫人も逝った。現在、長女の代里子氏は福岡で3児の母、長男の勝利氏は大分の企業で海外事業を担当しながら国際協力の研究をしている。次男の邦男氏は、東京に本社を置く建設会社に入り、同社の海外プロジェクトの欠かせない人材になっている。

【がんばれ七ヶ浜 震災復興支援プロジェクト】国際協力研究会 8-5.jpg


日本の国際協力の黎明期に、身をもってその形を示した古川一家の軌跡は、これからも語り継がれていくであろう。今もカンラオンで多くの若者が稲作に汗を流し、各地から視察者が訪れている。その賑やかな声は、福岡の地に眠る古川夫妻の耳にも届いているに違いない。今年は外男氏の13回忌を迎える。

タグ:フィリピン ネグロス島

トラックバック一覧

コメント一覧